頌徳碑(しょうとくひ)・頌徳歌(しょうとくか)

 杉浦健造博士は、昭和8年8月15日に逝去され、葬儀委員会による村葬が行われました。同時に「杉浦先生形象建設委員会」も発足し、翌9年9月に頌徳碑が旧押原小学校内に建立され、頌徳歌と頌徳誌も編まれました。
頌徳とは、杉浦健造博士の徳をたたえ、報いていこうということですが、博士が、医学・文化・教育・町づくりなどで果たした大きな業績と優れた人格、品性に学び、敬愛していこうという願いの碑と歌です。頌徳碑の前で歌ったのが頌徳歌ですから碑と歌は、一体でした。
政府は、太平洋戦争最中の1941年、鉄や銅など、銃や砲弾に使う戦略物資の不足を補うため、「金属類回収令」を公布し、家庭のなべ、釜から寺院の釣り鐘まで、国民に金属を供出させました。
健造博士の胸像もこの折に供出され、台座のみとなったことから、戦後杉浦家に返還され、現在に至っています。
子どもたちに戦争中の金属供出の歴史を伝えていくためにも胸像は復元せず、台座のままの頌徳碑をご覧いただきます。


 頌徳歌は、作詞、作曲とも作者不明ですが、近所にお住まいの塚原省三さん(85)が記憶していたメロディーを基に西条小学校の先生方が採譜して、子どもたちに指導してきました。
塚原さんは、自らも地方病を患い、三郎医師の診察を受けたことから、「地域に長く住む人間として、人のために尽くし、地方病の研究を続けた2人ことや地方病を語り継いでいかなければならない」と、当時を知る「語り部」として、現在も杉浦父子の功績を語り継いでいます。

杉浦醫院の地元、昭和町立西条小学校6年生91人による「頌徳歌」の合唱をお聞きください。





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